声を充分に支えるための基礎テクニック(noteまとめ)

《発声の基礎、声の圧縮、最少呼気による発声、圧力を生み出すきっかけとしてのブレス…など》
  • 発声の基礎は”どれだけ出すか”より”どれだけ出さないか”が重要です。特に息を出さないこと、密度を高い状態で保持する力は非常に大切です。昔に比べて現代の歌唱は息が余計に流れています。そのため声の響きが散り、表現と一致していません。支えが弱体化していることや、筋肉が使えていない、あるいは息の流れでごまかしていると言えます。声楽を学ぶ場合は現代を避けて昔の歌手の声に耳を慣れさせておくことが重要です。昔の歌手の声がいつも頭の中で鳴り響いていると良いです。
  • 水をまくときのホースの先端を指でつまんで狭くすると圧力が高まり、水が鋭く遠くまで飛びます。声を遠くに飛ばすときは、この感覚で声道の狭さをコントロールすると良いです。最適な狭さを探すことが大切であり、広さを求めると声は太くなり失速して飛ばなくなります。
  • 歌唱中のブレスは「吸う」というよりも「つかむ」あるいは「噛み付く」感覚があると良いです。時間をかけて吸うと深く吸えません。また、「吸う」という動作に時間をかけると不要な緊張や疲労につながります。一瞬で空気をつかみとり、出来るだけゆっくりした呼気を声にすると良いです。
  • ”声の支え”は吸気筋と呼気筋が対等の力で相互に主張して譲らないことが大切です。でも本当に対等の力だと息は止まってしまうので、少しだけ呼気筋の主張を強めると良いです。
  • 支えのある発声は横隔膜を”息を吸った状態”で保つと良いと思います。声を出すということは息を吐くことにもなるので、息を吸う機能と息を吐く機能の間で力の支え合いになります。逆の力同士の闘争状態とも言えます。
  • 戦中戦後のテノールは声に止めがあり支えが強靭です。この頃の声を目指して練習すると良いです。でもいきなり真似をしようとすると喉を壊すので、少しずつ鍛える方がいいですね。息で流したりしないで、適度に止める。ブレーキがかかっていることを忘れた状態で、アクセルを踏むような感じです。
  • 高い声を支えて出す場合は、残り少ない息の方が案外上手くいったりする。出し渋りが支えを強化していると思う。アッポッジョは出し惜しみのテクニックだと思う。支えのある声を出すときは予想しているよりもかなり少ない吐く息が大切。止まりそうなブレーキ加減の中のアクセルみたいなもの。
  • 歌手のフォルマントの動画です。2.5~3.0kHzの強調された歌唱が、声に輝きを与えていると思います。このような歌唱では息の流れを止める力が必要であり、優れた歌唱法は”息の最適な止め”や”非常にゆっくりした最少の呼気”が重要といえます。
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    「叫んではいけない」「力を入れてはいけない」「喉を閉じてはいけない」などは合唱の発声指導でよく見かけます。しかしこれらは声を鍛えて自由にするための過程では特に大切な方法です。きれいな歌唱はきれいな声の練習だけでは実現しません。いろいろな声でいろいろな鍛え方をする必要があります。
  • 「叫んではいけない」「力を入れてはいけない」「喉を閉じてはいけない」などは合唱の発声指導でよく見かけます。しかしこれらは声を鍛えて自由にするための過程では特に大切な方法です。きれいな歌唱はきれいな声の練習だけでは実現しません。いろいろな声でいろいろな鍛え方をする必要があります。
  • イは舌の面が硬口蓋前方に接近し、ウは軟口蓋に接近します。母音の発声練習は口の形よりも・舌の位置・舌と硬口蓋や軟口蓋との距離・口腔の形・口腔内で狭くなる場所・舌面の頂点…などが大切です。
    口元(唇)はあまり動かさない方が良いです。口の形は補助的なものです。舌で作るべき母音を口元で作ろうとすると響きの散った芯の無い声になります。
  • イやウの母音が苦手な人は多いけど、歌唱力の真価はイやウの母音に表れると思う。特に高い声を出すときはイ母音の輝きが重要。また、すべての声種においてウ母音は飲み込んではいけない。
  • 声が良ければそれで充分だと考えています。声が良いとは声が自由ということです。高さや大きさや通り具合とかの自由さのことです。声が良いだけでは不十分で歌の表現が大切という意見は多いですが、歌詞の無い母音のみの歌唱や動物や風の音などの自然界の音の模倣的歌唱は民族音楽のように世界中にあります。ボイトレを西洋音楽的歌唱の準備として考えると五線や平均律にこだわってしまい声の自由さを失う可能性があります。あるいは制限があるから声を響かせるメソッドが成立するので制限は有効な場合も多いですが。発声は西洋音楽と民族音楽を吸収しながら研究すると良いです。自然に帰って叫んだり遠吠えを上げたり、風や波の音を再現しながら発声練習をすると良いです。「声が良ければそれで充分」という私の考えは、言葉や西洋文明から得ている不自由さを取り除く必要があるという考えからきています。
参考ブログ (note2016~2017)